横井小楠記念館

案内 小楠の足跡

横井小楠記念館について

坂本竜馬、吉田松陰らが尊敬した幕末の思想家・横井小楠。
彼は明治新政府では参与に任じられ、岩倉具視は参与の中でも特に小楠を頼り、夜を日に次いで相談しました。
記念館の敷地内では、坂本竜馬が3度訪れた四時軒を公開しています。

インフォメーション

  • 住所: 〒861-2102 熊本市東区沼山津1-25-91
  • 問合せ先: 熊本市文化振興課 096-328-2039
  • 特記事項: 熊本地震の影響により当分の間閉館しています。

交通アクセス

■ 公共交通機関利用の場合
バス(秋津小楠記念館前行き) バス停「交通センター」乗車 バス停「秋津小楠記念館前」下車、徒歩5分
■ 自動車利用の場合
益城熊本インターから県道36号線を健軍方面へ、花立6丁目交差点を左折、直進後秋津川の手前を右折
※駐車場は記念館裏側

地図

視野は世界に

 日本がかつてない大飛躍をなそうとするその前夜、将来の日本が歩むべき正しい道を示そうと努力した一人の人物がいました。
文化6(1809)年熊本城下の内坪井に生まれたこの人物の名は、横井小楠です。
横井小楠は、「国家は富むだけではいけない、また軍備を増強するだけでもいけない。地球上で一番大切なのは、お互いにその立場を認め合い、 お互いがお互いをゆるす寛容な心がなければならない」と説いたのでした。

  • 横井小楠

    横井小楠

現実に根ざした学問

 肥後藩には時習館という藩の学校があって、そこで小楠は抜群の成績で、天和8(1837)年には居寮長(塾長)に抜擢されました。 そして2年後には江戸遊学を命ぜられ、水戸藩市藤田東湖などとも意見をたたかわせていたのですが、酒の席での失敗のため呼び戻されました。 熊本に返った小楠は、長岡監物、下津休也、荻昌国、元田永孚らと研究会を始め、文章や字句の解釈だけに力を注いでいたその頃の肥後の儒学に対し、 現実に根ざした学問のあり方を示しました。 これが実学党と呼ばれるものの起こりです。やがて小楠は塾を開きます。そこに一番に入門したのが徳富一敬(蘇峰蘆花の父)でした。 竹崎茶堂(律次郎)、矢島直方(竹崎順子、徳富久子、横井つせ子、矢島楫子の兄)が続いて入門しました。 嘉永2(1849)年越前藩の三寺三作という武士が諸国遊歴の途中、小楠を訪問し、その説に大変感激して帰りました。 越前藩は小楠に学校についての教えを乞いました。嘉永5(1852)年の「学校問答書」という建白書が書かれました。 この教育論には吉田松陰も大変感心し、長州藩にも推薦しようとしました。

  • 四時軒の額

    四時軒の額

  • 四時軒

    四時軒

吉田松陰、坂本龍馬も訪れる

 吉田松陰は、ペリーが浦賀に来た嘉永6(1853)年の10月、小楠を訪ねて来て終日話し合っています。 安政2(1855)年沼山津に転居した小楠は、この住まいを四時軒と称し、塾を開きました。 主張するところは攘夷論から開国論へと移っていきます。越前藩主松平春嶽からの招きで、安政5(1858)年から福井に行くことになります。 やがて松平春嶽が幕府の政事総裁になったので、小楠も江戸に出て春嶽の大事な相談役をつとめ「国是七条」も権言しました。 ところが、江戸詰めの肥後藩士と酒宴中に暗殺団に襲われ、同僚を見捨てて逃げたというので肥後藩から罰され、沼山津に 一平民として暮らさねばならなくなったのです。 下関砲撃事件や薩英戦争など、時代はめまぐるしく変転していた文久3(1863)年のことです。 しかし日本は、その小楠を捨ててはおかなかったのです。勝海舟の使いで坂本龍馬が訪ねて来ました。 慶応2(1866)年には勝海舟のはからいで、2人の甥横井左平太、大平をアメリカに留学させています。

  • 国是七条

    国是七条

明治新政府の要職に

 維新になると新政府は、横井小楠を参与という位で京都に呼び出したのです。岩倉具視は、木戸孝允、大久保利通らの参与の中でも、 とくに小楠を頼りにしていて、夜を日についで相談したものです。 小楠はまさに新日本の政治家として重要な地位にあったのです。 しかし、翌明治2(1869)年正月5日、太政官に出仕して退朝する途中、暗殺者たちに襲われ、短刀を抜いて防ぎましたが、 病体でもありついに力尽きて倒れました。時に小楠61歳でした。 墓は京都南禅寺の天授庵にあり、遺髪は熊本に持ち帰られ小楠公園に葬られています。

  • 小楠遭難時の短刀

    小楠遭難時の短刀